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vol.243 若松伸洋さん
PROFILE
1942年いわき市常磐湯本町生まれ。日本大学法学部を卒業後、新宿美術研究所にてデッサンを学び、仙台武蔵野画廊などでグループ展を開催。その様子がNHK教育テレビ「若者たち」で放映される。1973年いわきに戻り就職。退職を機に能面制作。2006年と2007年の福井県池田町新作能面公募展入選。個展も多数開催している。

能面を打つ日々の中で感じる
時を超えた物語に出会う幸せ
■一つの能面が内包する喜びや怒りなどの感情
暑さが残る日の午後、細い路地を歩いてたどり着いた一軒の家。庭の木には、ヤマナシとまだ青い柿の実が生っていた。
 この庭を眺める部屋の一角で、若松さんは面を打つ。遠く室町時代の頃から連綿と伝えられてきた、多くの能面師の技と心に思いを馳せながら。
 日本の伝統的な舞台芸術である能は、鎌倉時代後期から室町時代にかけて発達した。能楽と言われるようになったのは明治時代に入ってからで、江戸時代までは猿楽と呼ばれており、歴代の将軍たちに愛され、保護されながら伝統の技が受け継がれてきた。
 能楽でシテと呼ばれる俳優が掛ける能面は、役者が思いを表現する上で大切な役割を担っている。そのため、一面に喜びや悲しみ、苦しみや怒りなど、さまざまな感情を内包している。例えば、般若の面は、女性の嫉妬と怒りの極限の表情の中に、癒されない悲しみを見ることができる。
↑能面の形ができるまでの工程。ヒノキの板状の面材を楕円形に切ったあと、顔の形に彫り進んでいく
■退職を機に始めた能面その魅力にはまりこむ
若松さんが能面づくりを始めたのは、今から8年前。退職して自由な時間ができたのを機に、何かを始めたいと思ったのがきっかけだった。謡(うたい)の教室で知り合った人の紹介で、木彫家の鈴木千代人さんに師事。2年余りをかけて能面の打ち方を学んだ。
 面材となるのは、ヒノキの厚い板。これを面の大きさに合わせて楕円に形を整え、彫り進んでいく。面の形ができたら、胡粉を塗って乾かし、ペーパーをかけて胡粉を塗り重ねていく作業を幾度も続ける。最後に、唇に紅を差し、眉や髪の毛を描いて仕上げる。ひとつの面ができるまでには数ヵ月かかるという。
 初めて制作したのは、小面(こおもて)という若い女の面。「こんなふうに彫っていくのか」と楽しくて仕方がなかった。朝から晩まで夢中で彫った。
 その後も制作を重ね、今では100を超える作品が生まれている。平成14年には、開設したばかりの平サロンで初めての個展を開催。つくり溜めた作品26点ほどを展示した。「平は城下町ですから謡も盛んで、多くの人が興味を持って見に来てくれました。会場に展示した自分の作品を眺めているうちに、悪いところも見えてきて。その反省を生かしてまた次の制作に取りかかりました」。
 翌年には日立シビックセンター、平成16年には茨城県天心記念五浦美術館で能面展を行うなど、昨年までほぼ毎年、個展を開催している。
↑鼻を引くように笑うところから「鼻引」と呼ばれている狂言面
■つるりとした面に表情を出すむずかしさと奥深さ
 能面は、男面・女面・鬼神面・神霊面などに大きく分けられる。例えば女面のなかには、頬をふっくらとさせて若い女性の可憐さを出したものや、艶麗な女性を表したものなど250以上の種類があり、狂言面には45種類あると言われている。
「一番難しいのは女面ですね。つるりとしたなかに表情を出すのがなかなかうまくいかない。有名なものに『孫次郎』という面があるのですが、彫っては直し、また彫っては直しても、なかなか近づけない。奥が深いです」。
 二十代の頃、デッサンを学び、絵の仲間と精力的にグループ展を行った。父を亡くしていわきに戻り、就職。結婚して2人の子供をもつ頃には絵からも遠ざかっていた。退職後、時間に余裕ができ趣味で木彫を始め、庭木を選定した枝などを材料に晩酌をしながらこつこつ彫った。そして今、時間が経つのを忘れるほどに打ち込める能面に出会い、幸せなときを過ごしている。
「能面には、それぞれ物語があります。面をじっと見ていると、昔から語り継がれてきた物語を感じることができます」。
 会心の作と言えるものはまだできない。だからこれからも面を打ち続けたいという若松さんもまた、物語を伝える一人だろう。冬はニカワが固まりやすく、梅雨時は乾きにくいので能面づくりには苦労するという。本格的に面を打つ、庭の柿の実が色づく秋が近づいている。
↑頬をふっくらとさせて
十代の少女を表した「小姫」

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