Vol.200
「朝日サリー」 有限会社いまあじゅ 代表取締役 曽我泉美

profile

●そが いずみ/昭和39年郡山市生まれ。両親の都合で神奈川、東京などに移転、中1でいわき市へ。磐城女子高校(現桜ヶ丘高校)、昭和女子大学短期大学部卒業、地元にUターン。昭和63年フリーライターになり、平成3年(有)いまぁじゅを設立。





平大町に事務所があった頃、遊びに来てくれた高校時代の同級生と




読者の手作り品を預かって委託販売した平七夕のフリーマーケット「朝日サリーの店」




1990年に行われたサリースキーツアー。安比高原に行った

働く女性を応援する
情報誌「SALLY」が
1988年に創刊

 ●誕生〜朝日SALLY創刊まで(上)
このたびは200号を迎えることができ、読者、関係者、朝日新聞販売店の皆様には心から感謝を申し上げます。周囲の熱い希望により、2回連載で恥ずかしながら語らせていただきます。

書くことが大好きで
目立ちたがりの学生時代

 人には誰でも原風景があるが、私の場合は下町のごみごみとした、でも活気のある風景。駄菓子屋の奥のまるで秘密基地のような場所で食べたもんじゃ。4のつく日の地蔵坂通りの縁日。浅草の風鈴やほおづき市。
 あれから30年の月日が流れ、現在はいわきで情報誌を発行し、しかも200号を迎えた。当時流行っていた占い遊び「こっくりさん」で「将来私は何になるのでしょうか?」と聞いてみたが、果たして「社長」と答えてくれたのだろうか。そんな記憶は今は彼方だ。 
 小さい頃から絵を描いたり、文章を書くことが好きだった。地域の掲示板に勝手に壁新聞を作って貼ったのは確か小学4年生の頃。学校では決まって新聞委員になり、ガリ版刷りでクラス新聞を作った。また、小学2年生の頃から毎日日記をつけ、おそらく高校生まで続けていたと思う。中学生でいわきに転校。異常に厳しい校則と、耳慣れない方言には閉口したが、ほぼ1ヵ月でなじんで
しまった。高校時代には以前からやりたかったロックバンドを組んだ。
女子ばかりのくせに「TOTO」のコピーや私が作詞作曲したへなちょこオリジナル曲を演奏した。コンテストにも出たが、もちろん予選落ち。あまり勉強もせず「なんか人と変わったことをしたいな〜、目立ちたいな〜」というようなことばかり考え、実行しては人を驚かせていた。例えば男子に学ランを借りて町を闊歩したり、学園祭の仮装で観音様になり、全身金ラメを塗ってじゃんがらを踊ったり…。
 大学は女子大に入学したが肌に合わず、他の大学の軽音楽サークルに所属し、またバンドを組んだ。東京で就職したかったが、親のたっての希望もあり、渋々いわきにUターン。現在のタウンマガジンいわきの編集室に就職し、寝る間も惜しんで働いた。

体調を崩して退社
フリーライターに

 朝9時出勤、深夜3時退社。そんな日々が1ヵ月のうち1週間は続い
た。当時は原稿もレイアウトも手書き。いつも右手の中指はペンだこ、小指の片側は真っ黒。そこでは取材、デザイン、営業、配本、すべての工程に関わることができ、編集ノウハウを一から覚えることができた。しかし、私は体を壊し、わずか2年足らずで辞表を提出した。
 退社後22才でフリーライターの仕事を始めた。しかし最初に仕事を受注した会社が倒産。幸先の悪いスタートを切る。月5万円にもならない収入では生活もできないため、何か定期的な売り上げを得られないものかと考えていた。当時、男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進
出も認められてきた時代。「そうだ。
働く女性を応援する新聞を作ろう!」と企画したのが、『SALLY』である。同時期に別な会社を辞めていた大谷湖水さんに「一緒にやらない?」と声をかけ、10月にA4版6ページの情報誌を発刊。かつての同僚でこの頃独立起業した(株)DEPの西山氏には広告営業面で大変お世話になった。配布は当然手配り。足が棒のようになりながら市内のお店や集合団地などに3日かけて配布した。

広告営業に苦労
挫折の中で出会った一言

 「SALLY」は女性らしい誌面づくりを買われて、代理店の紹介から、当時ザラ紙で刷っていた「いわき朝日」という新聞と合併し、念願の新聞折り込みが可能となった。
 昭和63年7月『朝日サリー』の誕生である。以来、女性の社会進出における弊害、消費税、環境、校則などの問題などを取り上げ、一貫して社会派を貫いてきた。しかし、広告営業は辛かった。
「サリー?何それ?アニメの主人公?」「その広告料あんたの給料の何パーセント?」ひどい時は「朝っぱらから一体何の用だ!」と怒鳴られ
る始末。毎回赤字はふくれあがる一方。信頼していた人に金銭的なことで騙されたことも大きなダメージだった。女性で若かったために信用がないのは当然のことかもしれない。挫折感から次の号で辞めよう…と何度も考えた。
 そんな時、取材で出会ったある方の言葉が転機になった。小名浜在住の小滝かつ子さんだ。目が不自由な人のために新聞や雑誌を読み、テープに録音して送っている。取材の最後に「毎月サリーのイベント欄を皆さんに読んでいるの。だからできるだけ続けてね」涙が出そうになった。「とにかくできるところまで走り続けよう!」と心に誓う23才の私がいた。

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■バックナンバー
2004年6月号 いわきマジシャンズクラブ/鈴木清友さん
2004年7月号 明道賛家 コーヒー道師範/神場 明久さん
2004年10月号 川島工房/川島 力 さん
2004年11月号 いわき食介護研究会
2004年12月号 気鋭の料理人たち
2005年1月号 百席の会/古川隆 さん
2005年2月号 エディター/渡部サトさん

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